定年女子の人生後半戦は楽しい

女子の定年後は思ってたより忙しい

母の時代が終わる

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母が亡くなり、しばらく燃え尽きてました。

サラリーマンを定年して、幼稚園の先生になったアラカン女子メカジキが、日々の暮らしをあれこれ書いてます(自己紹介→
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4月4日に母が亡くなりました。

85才でした。

母が亡くなった悲しさより、それまでの一時帰宅の受け入れの大変さや、葬儀のあれこれ、遠距離の実家までを何回も往復する疲れでライフが削られ、燃え尽きました。

 

自宅に戻って、ぼーっとして、ようやく少し回復。

ちょっとだけ母の思い出を書きます。

 

昭和12年生まれの母は、二十歳で結婚して、ふたりの子を産みました。

二十代後半からひとりで喫茶店の商売を始め、それがはまって何店舗も店を持ちました。

この年代の女性にはめずらしく、ほぼ家庭を顧みず、30年以上店に近いところに単身赴任していました。

祖父母に大事にされたわたしは別にさみしいとも思わず、豪快に商売し豪快にお金を使う母をよそのお母さんよりかっこいいと思っていました。

 

小学生のとき、母に「もし今の商売やってなかったら、何になりたかった?」と尋ねたことがあります。

母は「総会屋か、手形のパクリ屋」と即答し、大人ってすごいわと思いました。

 

人たらしの名人だった母親は、お客さんに愛されました。

テレビに映った3代目桂春団治師匠を「春さん」と呼ぶので「友だちかあ?」と突っ込んだら、「ごひいき筋といっしょに何回かごはん食べた」と言ってました。

共産党の志位委員長のことを「志位くん」と呼ぶので「友だちかあ?」と突っ込んだら、「若いころ沓脱さんに連れられて、よく店に来てた」と言ってました。

大企業の社長さんから、芸人さん、左翼の大物まで交友関係が広く、いちど会った人の名前はけっして忘れないという特技の持ち主でした。

 

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ここ数年だいぶ物忘れがきてるなという印象でしたが、ひ孫が生まれたのをすごく喜び会うのを楽しみにしていました。

お正月には皆にすき焼きをふるまい、「ええ肉やねんで。いっぱい食べや」と元気でした。

3月からがたがたっと弱り、もとから人に世話をかけるのを嫌う母は「こらあかんわ」とさっさと旅立ったのでしょう。

 

お母ちゃん、これまでありがとうやで。